三菱一号館

今や美術館ですけど
この建物は2009年に三菱地所が丸の内のリニューアルの為に建てた(首都東京としての顔になる)明治建築のレプリカです。

1968年の高度成長期に壊され、貴重な職人技の粋を集めたディテールは三菱の『関東閣』というところに移し保管されてはいたようです。
大正期の関東大震災にも耐えた煉瓦造りの明治の建物で1968年当時保存を望む声もあったらしいけれど三菱地所の一存で壊されたそうです。
あまりに強行だったせいか・・・日本建築学会が『解体作業の即時中止と保存に関する要望書と同館の概略評価』なんていう文書を作って三菱に提出しています。
どうやら日本建築学会は1960年にも『明治建築の保存に関する建議』というのを三菱地所に提出して『三菱一号館』の重要性をアピールしたようなのですが。。。受け入れられなかったようです。
この『解体作業の・・・』は『三菱一号館』がどういう経緯で出来たのか詳しいので
抜粋させてもらいます。

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以下 日本建築学会『解体作業の即時中止と・・・』から抜粋
1968年3月26日(昭和43年)

(まず、何故重要かということを6点あげています。)

①街区計画の原点(丸の内地区)
②事務所建築の第一号
③明治に始まる日本近代建築はコンドル博士によって本格的・正統的にスタート(設計者がコンドル)
④日本建築界の大恩人であるコンドル博士による現存作品で最も優れている
⑤洗練されたゴシック様式
 コンドル博士以前の師バージスが当時世界的に聴こえたネオ・ゴシック建築の大家(たいか)であったことと 無縁ではない。
⑥当初の形がよく保存された明治建築

明治23年丸の内約8万坪の荒野を陸軍から払い下げを受けた三菱はロンドンのロンバート街に匹敵する日本最初のビジネスセンターとする壮大な計画をたて新帰朝の荘田平五郎を登用して計画を推進させた。そうして三菱は軒高の統一・不燃構造(煉瓦造り)・意匠のある程度の統一など厳しい規則をとることにし、政府の御用講師としたジョサイア・コンドル博士は教え子の日本人を三菱に入社させ実施に当たらせた。
そしてこの計画の原点・要となるべき『第一号館』の根伐り工事を明治25年1月に開始され約3年の工期で明治27年12月31日竣工された。

以上

   

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            (一丁倫敦と言われたそうです。)

1968年三菱地所が『三菱一号館』を解体し始めた4月、三井不動産が従来の軒高の高さ絶対値31mを大きく超える 高さ156m(軒高147m)の『霞が関ビル』が完成させています。

競争だったのかな~当時。

2006年 かつて『三菱一号館』のあったところを4メートル掘り返したら 松の杭が見つかったそうです。関東大震災も耐えた杭です。
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Commented by cody at 2014-05-01 04:57 x
へーレプリカなんだ!
だったら最初から壊すなよ…って感じだね。

帝国ホテルのフランク・ロイド・ライト館といい、日本人は自分たちの宝物を大事にしなさすぎ。
大体日本橋の上に高速道路を通したり。。
まー形あるものはみないつか滅びる…という、天災の多い国の考え方なんだろうが。。

> 大正期の関東大震災にも耐えた煉瓦造り
フランク・ロイド・ライト館も大地震に耐えたらしいね。

なんか古き良きものの破壊は、日本人からプライドと自信を奪う、外国資本の陰謀では…などと勘ぐりたくなるよ。

素敵な大正ロマン…と思ったけど、明治ロマン、なんだね!
Commented by mo8_a29 at 2014-05-01 07:20
見事なくらい昔の建物壊して造り直してるよね。
古いものは不便だし採算合わないとか商売上のことなんじゃないかな。大きい不動産屋さんだしね。
明治期に造った煉瓦建築を壊して昭和初期のミッドセンチュリーの立派なビルを造ってそれももしかして文化的遺産??だけどやっぱ壊して今風なビルに・・・しかしファサードだけ残して。なんて造ったり壊したりという文化・・・・なんだな~~
平気だよ レプリカ造るからなんてね。
by mo8_a29 | 2014-04-30 08:30 | 建築 | Trackback | Comments(2)

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